yuorhiyaのブログ

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正月早々

正月早々コロナになって正月休みの楽しみが消えたがそもそもそれが「楽しいこと」になるかなんて誰にもわからなかったんだから可能性のまま終わったのが誰にとってもよかったのさと・・負け惜しみを言わせてください。

 

・正月早々、が多い正月だった。正月早々誰かの親しい人は天災によって亡くなり誰かの帰るべき家は天災によって無くなり天災に連なる飛行機事故で誰かの将来と親しい人はなくなってしまった。

 

・個人ブログだからこそ書けるようなことで、誰も読まない文章でなかったら何も言及したくないーーその喪失に何もいうことができないからーーことが多く続いてしまったことに、陳腐でしかないけれど、遺憾の意を表明する。こんな正月があっちゃいけないだろう。一年の始まりとして、その後の364日がいい日になるよう、げん担ぎとしてお祭りのようにハレた気分で過ごすべき日だったんだ1月1日は。喪われた正月に黙祷。哀悼。怒り心頭。ふざけんな。今年の漢字は「喪」だ。

 

・お正月だからといって普通の日でしかないんだからお正月なのに・・と怒るのは筋違いだという輩に鉄拳を喰らわせなさい。お正月はなあ、おめでたくて、一年の始まりを、例えそれがどんなに嫌な一年になるかわかり切っていたとしても、まだ見ぬ未来にありったけの期待を込めて、嫌な去年と比べて、少しでもマシな年になればいいなって、祈り、寿ぐ日であるんだよ。空白の祈りの日だったんだよ、その日を奪ってはいけないよ、例え天災だとしてもやっていいことといけないことがある。いや他の日に起きればよかったっていうわけでは全然ない。全然ないんだけど、少なくとも元旦は、絶対に「起こるべき日」では絶対になかった。祈りの日がなくなってしまったら、本当に日々を漫然と過ごす生態なんて、文化がない。虫と同じだよ。

 

・でたな、宗教的な意識が・・。私は文化のことを、期待と希望を持ちながら生活することのように考えていたようですね。違うんじゃない?文化は、結果であって、態度ではないと思うよ。期待してようがしていなかろうが、何かしら生きていくために生きた軌跡がたまたま他の人の鑑賞に堪えるものとして映り、模倣され、形式化せられていき、その形式が記述され、それを知らなかった誰かに参照されて初めて「文化」になるんじゃないかって私は思っているよ。それ以前のものは全部「流行」。流行は文化ではない。文化を、私は、伝統とかなり近いところに置いているのがわかります。

 

・じゃあ今回の正月の出来事で私は何に怒っているんだ?何なら文化であろうがなかろうが糾弾の是非は関係ないし。

 

・「正月ムードを壊しやがって」の一言に尽きてしまうのでしょうか。2つポチ前に書いたことは勢いの産物でしかなかったのでしょうか。

 

・多分、最後の2文を消したら、単に正月への気持ちの表明で終わって気持ちいいな。なんかいいこと言おうとして大きく出ちゃったのがいけなかったな。でも、お正月自体は、文化だと思う。その文化が今年できなかったこと、それも、大勢がやろうと当たり前のように色々準備して、例えばお正月飾りを買ったり、御馳走とか、おせちとか、お屠蘇のための日本酒とかを用意して、それが狙い通りに消費されなかった、つまり文化されなかったことは、悲しい。文化を重んじたいというわけではなく、文化に乗っかって安穏と暮らすつもりだった人々の「安穏さ」、平穏への期待というか、次踏み出す足場に穴が掘られていないだろうという世界への信頼感、そういうのが裏切られたのが、裏切りが、お正月飾りというおめでたい雰囲気をもつこのものによって演出されているのが悲しい。

 

・ダンサーインザダークのミュージカルの曲調が明るいほど悲しいのと同じかもしれないな。

 

・えー。

大晦日です

・大晦日だ。

 

・大晦日だからといって特に特別な気分にはならない、というポーズが本当にポーズであることは、今日この日にこの文章を書いていることからあまりに明かで、こんな明示的な「ポーズ」ですらないかっこつけの言葉がなぜ出てきたか理由を問うと、そしてそれを記述する意味をあえて考察すると、「自分の思考の惰性性」を開示すること、これに尽きると思います。日々、どれだけの思いや、それに基づく態度が、インターネット受けしそうな冷笑的で浅薄な流れのままに、自分から考えるということをせずに私に「私の心」として映ってきたか、考えるとなかなか悲しく、いやこれも惰性であると判じるべきだろうか、私の心は一体どこに・・と煩悶することをやめられないことが、2023年年の瀬に、私に思われる一つの事柄であります。

 

・寒いので誤タイピングが多い。今ヒーターをつけたけど、温まるまでに書き終わらないことがあるかしら。反語ではなく、純粋な疑問として。

 

・年末なので一年の振り返りをするのが筋だろうとは思うんですが、私の記録嫌いのポーズが私自身のものとしてついに定着したのか、それとも単に思い出すこと自体がダルいのか、そうした気分は全くありません。じゃあどうしろっていうんだ。年末だから何か締めの感じを出したいが、そう思う気持ちは残っているが、過去の私が人工的に作った記録嫌いの私がそれをさせてくれない。あーあ。そのうち「年末を特別なものとみなすのはダサい」と考える誰かが私になって、こうした機会はついに消えてしまうのかもしれません。いつか消えるこの機会を、丁寧に扱いたい。

 

・じゃあどうする。記録嫌いは、自分の言葉嫌いと、すべてにおける変容への愛から来ていると思います。当然言葉には限界があり、自分の心を記述するなんてことは自己満足でしかないし、その自己満足を楽しむことももちろんツイッターなどではするけれども、自己満足のためにするに記述という労を割くのが惜しい気持ちが大半で、だから自己満足のためだけに、そして自分の感覚を誰かに認められてそれが正しいのだと信じたい承認欲求が強まらない限りは、あえて記録を残すということは、このんではしません。今のわたくしは。

 

・「今のわたくしは」という言葉に見られる通り、私は過去の私と現在の私を別物として扱おうと常に試みておりそれは先ほど述べた変容への愛から来ます。変容への愛がどこから来たかというと、おそらく、全てのものは変わっていくからそれを肯定し楽しむことで、この世界における、精神的な勝ち組になりたいというさもしい人生観から来ている。あとドラゴンラージャ。あれは確か共時的にも通時的にも変化するものを人間として定義していたように思われます。誤読だったり記憶違いだったら恥ずかしいけど、なぜドラゴンラージャを出したかというと、イヨンドの「涙を飲む鳥」が日本語訳されるらしいというニュースを聞いて、単純にワクワクしている・・というか、その話題を見て単に気分がドラゴンラージャに不可逆的に人生を変えられたものとして自身を見なしたいという欲求ーーそれはとりも直さずTwitterのフォロイーを見て、仲間になりたいという細やかな対人意識があったからーーに求められる。

 

・で、自分の記録がなぜ変容への愛と対立するかといえば、言葉は残り、常に未来の自分に(自己愛から)参照され、その当時の言葉をもとに自らを定義し直し、つまり自分の変容をすこぶる阻害する可能性があるからです。当時見たように現在も対象を見、同じ感想を抱き、それを言葉にしなおすことで新鮮な他者からの認識を得、満足することーーこんなにも唾棄すべき、何の進歩もない営みに、高潔な私の心は耐えられないのでした。なので自分の記録はしないようにしているし、そもそものそれの不可能性も加わって、いよいよ記録なんてないさ、記録なんてウソさ、寝ぼけた自我の浅ましさだったのさ、と言いたくなるのです。

 

・過去の自分の記録を未来の自分が他者として読み直す可能性、過去の自分を振り返りその過ちを見出し現在の自分を正す材料とする可能性を破棄し、無批判であることに安住する自分の思い込みを正す可能性を失っている。そうかも。そうだね・・ではやっぱり、単なるめんどくささだったのかしら。そうかも・・

 

・こうして自分のスタンスに対して適当な返事「そうかも・・」をすることで、批判を受け止めたポーズをとって真剣に自分の変容に取り組もうとしない、この点での怠惰、この点での現在の自己愛、保身に走る自分についてどう思いますか?2023年、この「そうかも・・」という、批判を受け止めるていの緩い自己愛を、一新するきっかけにしてもいいんじゃないですか?大晦日だし。

 

・自分の足元を見つめ直し、柔軟に自分を望ましい方向に更新するあり方って素敵で、そうありたいと願っているが、それをしないのは、やはり単なる怠惰でしかないと思う。自らの怠惰を「記録の不可能性」「変容への愛」と小難しい言葉で彩り、確固たるスタンスであるように自分に演出し、その演出された自分に満足するあり方が、先ほど嫌いだと述べた、進歩のない恥ずべきあり方でなくて何だというのか。

 

・今結構驚いていて、というのも、記録による変容の阻害を謡うその文章が、それが紡がれることによって、まさに書き手の自己の変革を迫っているからです。えー!楽しい!構成上の美しさから来る快感も乗じて、とても楽しい気分です。心から信頼していた親友が、その信頼する理由によって、自分を裏切った、そういった気持ちよさがあります。何を私が信用していたかと自らに問えば、驚くべきことに、活字です。活字に何かが表現されうるという不思議な事態。そして、活字と、それを描く主体の複雑な、単純な一致ではない関係。この違いがあるからこそ、私は私に相談することができるし、そうして自らを自ら認められるようであれかしという思いを書くこと、何なら言葉で思考することで表現することができた。この違いが違いであればこそ、書くことによって書く内容が書く内容を裏切るという耽美なドラマをこうして見ることができる。自らを支えていた自問の形式が、保身と自己満足に止まらないものであったことを、私は嬉しく思うし、この結果はきっと、活字にして自分でそれを見るのでなければ、考える素地として機能しなかった。自分の頭の中で何度「記録嫌い」とそれを構成する足場を見つめても、そこに立って土を耕し、新しい「自己変容」の種を撒くことはなかった。活字の保存性を改めて実感できたことに、私が活字の保存性と保身を重ねてきただけに、驚きを禁じ得ません。

 

・いいんじゃないでしょうか。来年に活かしていきたい新しい気づきがあって。大晦日らしい内容になったんじゃないか。来年は、なるべく、気が向いた時に、自分の信念を、ほじくり返し発展的なものに作り替えていくために、言葉にしてみたいと思います。新年だけに。

 

・えっ!?進歩的な姿勢への嫌悪は書かないんですか!?←大丈夫、その嫌悪は、消えてゆくものとしての諦念に対する逆張りとしてあるだけだから。そのうち、ネ・・

熱海秘宝館が楽しかった

 

君たちは私が結局独りで熱海秘宝館に行った事実をどう受け止めるか

 

・友達がいない悲しさは穿っていると思うので労働の義務に忠実な友人を多く持つことに道徳的な喜びを感じつつ、それはそれとして寂しい!!!私の面の皮がもう少し薄かったら耐えられなかった。

・負け惜しみではなく熱海秘宝館、楽しかったです。運悪く?男子学生の5人組に続いて入ってしまって初めの数分、魔羅や女陰のレプリカの溢れる中リアクションに困っていたんですが、「徳川家康黒歴史を紐解いてみましょう…♡」と囁く、ロープウェイ販促映像で家康が酒池肉林の放逸を楽しむ歴史紙芝居を見て、思わず声を出して「ハハ」と笑った瞬間、全てが私の世界になりました。独りで来る人が誰独り見受けられない中感じていた疎外感が一気に薄れて、目一杯楽しんでやろうという気力が湧いてきたのです。

・目眩くセックスな空間に知らない人と一緒にいることは稀なので、身の置き場に困っていたのでは?と思ったのをよく覚えています。そして笑いの効用についてもまた、信を新たにしました。笑いは全てに対して、我が身と一線を引く効果があります。セックスというは、ハレンチな事態に、それを鑑賞する身としてどう向き合うべきか、答えは一つ、笑いです。やむにやまれず漏らす笑いではなく、一つの選択の結果として「笑う」こと。この意識が強く私を勇気付けました。

・一番印象的だったのは、ガラスの向こうで裸の女性のマネキンが、ボタンを押すと足場が回転して乳首と隠部をあらわにしていくという展示でした。これは何種かあったんだけどどれも隠れる/露になるの運動そのものがものすごくエロいことを、そのボタンに指定された時間の中にだけ私にあらわにしてくれて(しかもマネキンはマネキンなのであらゆる権利がなく、なすがままに回転を続けるしかないその永遠性と絶望感!エロスとは攻撃誘発性と無力な抗いが示す無抵抗さの相乗によってかもされると誰が言ったでしょう)、二重三重の興奮を煽る装置の、言いようのない無機的な冷たさと相まって、非常にそそられるものがありました。

・回転ベッドってずっと謎だったんですけど、回転自体に何かエロチックな秘密があるんですか?人を回転させて鑑賞することってものすごく消費の許された不徳な空間でしかあり得ないから、回転するマネキンに私は興奮したんですが、回転自体に興奮を催す(それは一点しかない視点にとって、絶えず待機と愛惜をもたらす運動です)ことがあるとすると、それはヒッチコック的な『めまい』の酩酊と混乱、そして自我ー個人ー責任の三位一体が織りなす近代社会へ浅薄な嘲弄という、我が身からの逃走の快感ーーに、他ならないように思います。

・その中でも特に、こちらに背を向け泡風呂に立つ女性のマネキンの無表情さは、能面の角度で感情を見出す人類には酷なほどに、自らの置かれた状況への諦念を表しているように見えました。めっちゃエロかったので何回も乳首ボタン(熱海秘宝館なので展示を起動させるボタンが全て乳首になっている)を押したものでした。

・回転への関心、最近暴太郎戦隊ドンブラザーズの影響で月に対して異常な関心寄せていることと絶対に無縁ではない。

閑話休題。もう一つ印象に残ったのが、館全体に、ひいては熱海全体に(個人的に)当てはまる(と感じる)、昭和的なあけっぴろげさの消費ー消費される側の無抵抗さのエロスです。「ご自由に座ってお楽しみください」と注意書きのある、鏡を前にしたソファに腰掛ければ、鏡の向こうに、私をもてなそうとする生身の女性の映像がーヘアスタイルからして平成前期に撮影されたものでしょうかー投影されます。ボタンひとつで決められた奉仕活動をする姿はマネキンにあい通じるものがありますが、映像の白眉は「あなた」という代名詞の効果です。いまの私に対して、自我も思考も漂白され無限の繰り返しに囚われた「彼女」が話しかけている……という耽美な感覚は、もちろん例えばディズニーのお定まりのアトラクションにも感じて然るべきものですが、人間は普段服を身につけているという固定観念をもつ社会人にとって、「私のミルクも飲みたいの?しょうがないなぁ」と容易く服を脱いでみせる映像の彼女は、「そういうアトラクションを楽しむ自分」の「自分」を構成する昼の社会の常識を超えた存在となり、したがって「そういうアトラクションね」と思う自分を少なからず揺らがせます。こわされた私の断片を漂いながらそれでも私と呼べる知覚の集合が見るのは、生身の人間を容易く想起させる映像ーつまりは不在そのものーなのです。

・不在と現前の戯れなんて60年代の亡霊wと笑っていなさい文学の人。我々が楽しく生きている基盤をしっかり意識し、そこに足場を持たない不在の(なんて世間知らずで想像力を欠く認識!)人「らしい」存在の悲哀を楽しみなさい。ちんぽやまんこで混乱して笑うしかない愚劣な人々の中で、我とは何かを問い直しなさい。逃げとしての笑いではなく、何を笑っているか、笑った結果としてどのように社会を認識しているか、しかと自らに問い正しなさい……

・というメッセージを別に受け取っているわけではありません。昭和の亡霊がエロくて、切なくて、その切なさが(苦笑)で覆い隠されている事態に安堵し(わたしはエロいものが好きだから)、そのエロさの保存、すなわち人外の消費に加担するいつものわたくしーーオタク!☺️ーーであったというだけの話なのでした。めでたし、めでたし

「お粗末さん」と言いたくて/映画「おそ松さん 魂のたこ焼きパーティと伝説のお泊まり会」感想

私は松について、彼らがむつごとしてあるキャラクターとしてむつごであることをどう超えていくかを見るのを楽しんでいるので、今回のえいがはあまりにも「むつご」の一塊で、そのためあまり面白くは感じられなかったんですよ   ギャグは楽しかった  それはそう・・・

 

 

むつごという群体として今回求められていたのは客を楽しませること、それだけでした。彼らは終わりのないお泊まり会に疲弊し、自分たちではどうしようもないままに自分たちの家を祭りの会場にされたまま、客の気が済むまで付き合わされーー最終的に「俺たちに生きる意味は無い」と絶望しました。アニメでは「これでいいのだ」と留保付きで述べられた「ニートの自己否定感と肯定」は、今回は彼ら六人の純粋な絶望に終わります。「魂のたこ焼きパーティと伝説のお泊まり会」は、彼らにしかない特殊な状況であり、そこに第三者の視聴者の我が身を重ねる余地がないからです。

1~3期の25話では無職童貞であることに嘆息しながらゆるくその現状を受け入れることで、彼らの有り様を通したアニメとしてのメッセージ「これでいいのだ」を発信していたが、今回はどうでしょう。今回の映画では、嘆息を停滞への肯定としては描かず、行き場のない絶望感の表象としていたように見えました。最後の問いに対して「さあね」とぼやいたり、投げやりに「知るか!」と釣竿を引いたら十四松が釣れる、そういったエンドもあったと思うのですが……ギャグで締めることで伝説のお泊まり会を「拘泥する価値のない小話」とはしない、6人の絶望感と疲労感だけが残る、異様なエンドだったと言えるでしょう。

 

アニメ1期「我々の世界はこれで良い」からさらに描かれる2期「ちゃんとすることの罪=ちゃんとしない自覚ありきのアニメーションである宣言」でも、3期「むつごの総意として現状があることの呈示」はそれぞれ視聴者に「自分たちの正解」を提出する営みでした。えいがでは視聴者の望む姿を見せるエンターテイナーとして振る舞い、むつごのおそ松さんであることの「意味」を、ひとつはそうある視聴者への肯定として、ひとつは彼らを消費する視聴者への肯定として、二重に描くものですらありました。とかく彼らは似た境遇にある同胞を勇気づけるイコンであり、また赤塚イズムと呼称されるアナーキー的な無秩序の肯定の申し子であったと言えるでしょう。しかし今回の映画はどうか。「ニート同定=生きる意味なし」は、あまりにも、他メディアミックスとの整合性を欠いているではないか。この不整合には、なんらか意味を見出さねればならないのではないか。

 

彼らの振る舞いを視聴者へのサービスだと見る場合、今回の映画の、土気色をした瀕死の彼のメッセージを、体を張ってウケを取りに行く姿と捉えるのは不自然です(似たシーンとして一気のクリスマス会が浮かびますが、あれは同じように「終わった」クリスマスを過ごす視聴者への寄り添いであるところが大きいでしょう、「6つごが終わっていること」は、6つごそれぞれがそれぞれ異なる仕方で終わっているこことでは描けない、象徴的な出来事として捉える必要があります)。

そして、「それでは皆さんご一緒に!」についていけるのはそれぞれの現実を生き、束の間の休息として松野家のパーティーに参加する人たちだけです。「松野家の馬鹿騒ぎ」を除いた現実を持たない(それ以外の道を選び破滅する姿はアニメ1~3期を通して丹念に描かれている)、アニメの中心としてその世界のすべてに意味を吹き込む中心的な存在である6つごたちは、現実逃避に来た客のアンコールに応え続け、客が飽きて帰るまで、そこから出ることができませんでした。

 

何を描いていたか、もうお分かりでしょう。彼らは、「おそ松さん」を休息所とする視聴者からの終わらないアンコールに辟易し、しかし応え続ける義務から逃げずに、瀕死のていでこちらの欲望に付き合い続けているのです。続きが見たい、もっと現実から目をそらしていたい、逃避そのものをアニメは真っ向から受け止めーーというのも彼らに逃げ場はありませんから、だって他の全ての逃避場所である松野家は、彼らの日常であり、彼らの生きる「現実」であるからーー、そして最終的に、「自分たちに生きている意味はない」と結論づけるのです。

 

この「生きている意味はない」を視聴者たる我々はよく心に刻むべきでしょう。我々はもはや彼らの生きる意味にはなり得ない。キャラクターに息を吹き込む「こちら」(この「こちら」は最大限に露悪的に取ってくださって結構)を、意味の源泉としなくなった彼らに、我々はもはや「続きを見せて」と言う正当性はありません。純粋なこちらのエゴイズムによってのみ、「4期楽しみです!!」を、我々は言わなくてはならない。あちらの彼らに、やって「もらわな」ければならない。私は今回の映画を、演者による視聴者への手切れのメッセージとして解釈しました。

 

「お粗末さん」は言う立場の違いがあるにせよ完了の意味を伴います。「おそ松さん」が「お粗末様」と言うのを私は認めたくないし、当然「お粗末さん」と言いたくもありません。よし言いたくなったとしても、「タイトルは『おそ松さん』」なので、終わりを表明し得ないんだからしょうがない。彼らは終わりを望めど「それではご一緒に!」の声に引きずられて終われない、我々が終わりを望めたとしてもタイトル名のためにその意向はすれ違うばかり。この終わりなきアンコールに、終止符が打たれる日が来ないのを、切に願うばかりです。

 

 

客が飽きるまで踊り続けなければならない演者の悲哀と疲労と絶望を突きつけられて、なお「もっと踊って!」とのたまう客がいますか?いるんだなあ、ここに・・  殺してください・・・

生きています

カワセミと朝の万葉歌人|春央

 

・同級生のナリモト君の文章がいい感じにスノッブで感傷的で趣味に合ったので、私も何か書きたいなと思って久しぶりにこちらを覗きましたとさ。

 

・数日前にこのブログを思い出してはいた。ユニクロに半袖のフルオープンシャツを買いに行って、帰りのセブンイレブンでタバコを吸っている時、煙の様子がどのように心に引っ掛かったかはもはや覚えてはいないが、何か書き留めるところがあれば良いと思って、その時にここを思い出したのだ。

 

・12月に書いたもので止まっていたら第三者が見たら絶対に死んだと思うだろうな。

 

・虐待サバイバーだった人が自死した報告をその人のブログで読んだ。死んだな〜と思うばかりで、報告を投稿したその人の親友のブログに「彼の死に際し斬鬼してください」とあったので斬鬼して、「人殺しの顔をしろ」というブログを思い出し、人殺しの顔をしようとしてキムチ鍋に興味が移り、この一連のサーフィンはウェルシアの駐車場で行われていたので、そしてウェルシアには夕飯と殺虫剤を買うつもりで向かったので、人殺しの顔未満の顔をマスクで隠して、冷凍うどんを買った。

 

・一文が長いなー。「ー」は普通の人が使うもの、「〜」はオタクが使うもので、オタクが使うもの(あとは2連の三点リーダーがある)は使えば使うほどコミュニケーションをとる相手の母数が狭くなる感覚があり、本当は「一文が長いな〜。」と書きたかったんだけど、向上心にしたがってね。

 

・向上心自体は方向性でしかなくて、何を上にするかはその人の心によるだろう。コミュニケーションの相手が多いことを上に置いていることがどういう価値観を示しているかはなんとなく明らかで、つまりは多くの人と適切にコミュニケーションを取れることを是とし、その対極に、戯画化された「オタク」がーーTwitterで自虐芸をしているああいう人たちがーーいる価値観、普通への憧れが顕な価値観。

 

・飽きてきたな。

 

・さっきの価値観、結局なんて言えばいいんだろうね。なんとなく明らかなんだけど、それを表す言葉を私は知らないよ。意識的に思い出そうとしていない感じもする。まとも?臆病?保身?そう言った類のもの。ずっとあるし、そこから逸脱することで、そこに回帰する反動を、期待して怪文書をさも崇高なものとして読むことがある。同時にそれを崇高なものと思って、読んでいることによる自分への満足を期待している。同時に、内容に面白みを感じて読んでいる。

 

問①、怪文書にとって望ましい読者はどれでしょう。怪文書の気持ちになって考えてみましょう。

問②、自分を怪文書呼ばわりされて、怪文書はどう思うでしょうか。自分の考えを書きなさい。

 

・ハエが飛んでいる。帰るたびにハエがいるのなんでなんだ。ウェルシアでハエトリ紙を買ってこようね。

虫に天使を見た日

虫に天使を見た日

秋の終わり、少し肌寒くも麗かな午後の日差しの中で、私は途方に暮れてタバコを吸っていた。ベランダの喫煙所は下の通りからよく見える。何もしていない焦燥感に苛まれながら、人目を避けるようにして吸う煙の乾燥が喉にしみた。風が吹き、煙が途切れる。切れた煙を捉えようと視線が動く。屋根の雨樋の先っぽに、黒く細い、小さな十字架が群れていた。虫だった、と思う。翅は見えず、ただ十字架が中空にうようよと飛んでいる様子は、そのさきに見える青空の高さと相まって、どこか特別なものに見える。神秘的にすら見えるが、それは教会の荘厳さに演出される神秘ではなく、神社の奥の社の影の、どこか人を寄せ付けないところに感じるそれだった。煙を群れに向かって吹き付けても、白いもやは繊細な十字架の前に霧散する。十字架は変わらず少し離れた上空で飛び交っている。それを見ながら、つと「天使さま」という単語が頭に浮かぶ。人の営みの届かない箇所で薄暗い特別を周囲に振り撒きながら、どこまでもそれに無頓着で、だからこそ羨ましい。

「天使さま」と声に出してはいけなかった。陳腐なセンチメンタルの結果であることが世界に知られてしまうからだ。私はただ、届かぬ白い煙を懸命に吹き付けながら、十字架の舞い踊る様子に見惚れていた。

 

霜の美しさ

霜の美しさに気づいたのは朝に犬の散歩をしている時だった。川沿いの芝生を歩いていると、低い朝日を受けた白い芝生が細かな虹色のきらめきを放つのを見ることができる。朝のイルミネーションだ、とぼんやりと思った。このきらめきを楽しみに、最近は朝の散歩がそこまで苦痛ではない。

深夜、院生室からタバコを吸いに出れば、霜のおりた草っ原にLEDの外灯が強烈な光を当てるので、やはり白を基調として虹色が私の目を刺すのである。上に目を向ければ、寒空の澄んだ空気にくもりなき輝きを届ける星々が、街を見下ろせば住宅街のあかりの集合が夢の中で見る深海の宝物のように美しく灯り、下にはガラスを細かく砕いて敷き詰めたようなきらめき。冬の夜はいい。清少納言は早朝の朝のひそやかな生活を愛したが、私は生活とおよそ離れた小さな丘で、遠い光を愛している。

およそ1ヶ月ぶりの投稿になります。

・三日坊主がなんだって?

・いいいんだよ。こういうプラットフォームがあるのが大事だから。

 

・服のサブスクairclosetに登録した。昨日。深夜2時に。べろべろに酔って。明後日久方ぶりに友人と遊ぶので、それまでに届いてくれるとありがたいのだけれど。

・女オタクの服装に関して共感性羞恥を煽るはてブがまたバズっていた。2年毎くらいに見る気がする。ドラクエ5の牛さんの「そういう妖怪だと思ってる」説を採用している。牛さんの描く5主好きだったな。何者でもない己への諦観と父親への憧憬を狂気じみた純度にまで高めて、顔をよくすると牛さんの5主になる。気がする。

 

・昨日今日とすっとFGOの夏イベをやっている。エンセイ君がとても良いお兄さんだ。頼れて素敵。

 

・ほら!何もしないとこんなにも薄っぺらい記述になるんだよ!!わかったか!!

・剣持刀也の切り抜きとスリザリオを見る日々が続いている。いよいよ得るものが何もない。いいんだけどさ。いいのかな。いいんだけどさ。

 

・質の良い情報をインプットした日と、そうでもない(いや、FGOは楽しいし、剣持のトーク力はとてもすごいと思うんだけど。差をどういうところでつけてるんだろう。知名度?作品を知るに関わるハードル?純粋な質の違いなの?私にその違いがわかるとは思えないが・・やはり雰囲気なんだろうか。作品を取り巻く「これは高尚ですよ〜」感に惹かれて、またそういったものを摂るにあたり「良いもの」をとった!と感覚していて。だから後世でFGOの今はどうでもよく見える幕間の物語が物凄い評価を受けて、その後に始めて見たら、いいもの見たなと思うんだろうか。ラーメンハゲ!人は情報を食ってるんだ!!)

・いいじゃん情報を食ってても。その日、その人の満足感にしか関係しないんだから。満足しようが姉妹が、作品はあるし、楽しものは楽しいし、楽しくないものは楽しくないし、神経を傾けたいものは神経を傾けたくなる。最後の一つだけ、先情報が関わってくるんだろうか。

 

・インプットの質はともかくとして、その性質として、楽であり、空しい。アウトプットは、やはりその質は、苦しく、充実している。こう適当に正反対のことを並べても、それっぽくなるのが不思議だ。そもそもinとoutがそうじゃろ。同じ「摂る」を使う食事でも、食事/料理は、後者に充実感が全くない。食事をどう味わえるかに充実感を求める。経口摂取と脳内摂取では、使う筋肉も頭も全然違うらしい。

 

・本当に?