yuorhiyaのブログ

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「お粗末さん」と言いたくて/映画「おそ松さん 魂のたこ焼きパーティと伝説のお泊まり会」感想

私は松について、彼らがむつごとしてあるキャラクターとしてむつごであることをどう超えていくかを見るのを楽しんでいるので、今回のえいがはあまりにも「むつご」の一塊で、そのためあまり面白くは感じられなかったんですよ   ギャグは楽しかった  それはそう・・・

 

 

むつごという群体として今回求められていたのは客を楽しませること、それだけでした。彼らは終わりのないお泊まり会に疲弊し、自分たちではどうしようもないままに自分たちの家を祭りの会場にされたまま、客の気が済むまで付き合わされーー最終的に「俺たちに生きる意味は無い」と絶望しました。アニメでは「これでいいのだ」と留保付きで述べられた「ニートの自己否定感と肯定」は、今回は彼ら六人の純粋な絶望に終わります。「魂のたこ焼きパーティと伝説のお泊まり会」は、彼らにしかない特殊な状況であり、そこに第三者の視聴者の我が身を重ねる余地がないからです。

1~3期の25話では無職童貞であることに嘆息しながらゆるくその現状を受け入れることで、彼らの有り様を通したアニメとしてのメッセージ「これでいいのだ」を発信していたが、今回はどうでしょう。今回の映画では、嘆息を停滞への肯定としては描かず、行き場のない絶望感の表象としていたように見えました。最後の問いに対して「さあね」とぼやいたり、投げやりに「知るか!」と釣竿を引いたら十四松が釣れる、そういったエンドもあったと思うのですが……ギャグで締めることで伝説のお泊まり会を「拘泥する価値のない小話」とはしない、6人の絶望感と疲労感だけが残る、異様なエンドだったと言えるでしょう。

 

アニメ1期「我々の世界はこれで良い」からさらに描かれる2期「ちゃんとすることの罪=ちゃんとしない自覚ありきのアニメーションである宣言」でも、3期「むつごの総意として現状があることの呈示」はそれぞれ視聴者に「自分たちの正解」を提出する営みでした。えいがでは視聴者の望む姿を見せるエンターテイナーとして振る舞い、むつごのおそ松さんであることの「意味」を、ひとつはそうある視聴者への肯定として、ひとつは彼らを消費する視聴者への肯定として、二重に描くものですらありました。とかく彼らは似た境遇にある同胞を勇気づけるイコンであり、また赤塚イズムと呼称されるアナーキー的な無秩序の肯定の申し子であったと言えるでしょう。しかし今回の映画はどうか。「ニート同定=生きる意味なし」は、あまりにも、他メディアミックスとの整合性を欠いているではないか。この不整合には、なんらか意味を見出さねればならないのではないか。

 

彼らの振る舞いを視聴者へのサービスだと見る場合、今回の映画の、土気色をした瀕死の彼のメッセージを、体を張ってウケを取りに行く姿と捉えるのは不自然です(似たシーンとして一気のクリスマス会が浮かびますが、あれは同じように「終わった」クリスマスを過ごす視聴者への寄り添いであるところが大きいでしょう、「6つごが終わっていること」は、6つごそれぞれがそれぞれ異なる仕方で終わっているこことでは描けない、象徴的な出来事として捉える必要があります)。

そして、「それでは皆さんご一緒に!」についていけるのはそれぞれの現実を生き、束の間の休息として松野家のパーティーに参加する人たちだけです。「松野家の馬鹿騒ぎ」を除いた現実を持たない(それ以外の道を選び破滅する姿はアニメ1~3期を通して丹念に描かれている)、アニメの中心としてその世界のすべてに意味を吹き込む中心的な存在である6つごたちは、現実逃避に来た客のアンコールに応え続け、客が飽きて帰るまで、そこから出ることができませんでした。

 

何を描いていたか、もうお分かりでしょう。彼らは、「おそ松さん」を休息所とする視聴者からの終わらないアンコールに辟易し、しかし応え続ける義務から逃げずに、瀕死のていでこちらの欲望に付き合い続けているのです。続きが見たい、もっと現実から目をそらしていたい、逃避そのものをアニメは真っ向から受け止めーーというのも彼らに逃げ場はありませんから、だって他の全ての逃避場所である松野家は、彼らの日常であり、彼らの生きる「現実」であるからーー、そして最終的に、「自分たちに生きている意味はない」と結論づけるのです。

 

この「生きている意味はない」を視聴者たる我々はよく心に刻むべきでしょう。我々はもはや彼らの生きる意味にはなり得ない。キャラクターに息を吹き込む「こちら」(この「こちら」は最大限に露悪的に取ってくださって結構)を、意味の源泉としなくなった彼らに、我々はもはや「続きを見せて」と言う正当性はありません。純粋なこちらのエゴイズムによってのみ、「4期楽しみです!!」を、我々は言わなくてはならない。あちらの彼らに、やって「もらわな」ければならない。私は今回の映画を、演者による視聴者への手切れのメッセージとして解釈しました。

 

「お粗末さん」は言う立場の違いがあるにせよ完了の意味を伴います。「おそ松さん」が「お粗末様」と言うのを私は認めたくないし、当然「お粗末さん」と言いたくもありません。よし言いたくなったとしても、「タイトルは『おそ松さん』」なので、終わりを表明し得ないんだからしょうがない。彼らは終わりを望めど「それではご一緒に!」の声に引きずられて終われない、我々が終わりを望めたとしてもタイトル名のためにその意向はすれ違うばかり。この終わりなきアンコールに、終止符が打たれる日が来ないのを、切に願うばかりです。

 

 

客が飽きるまで踊り続けなければならない演者の悲哀と疲労と絶望を突きつけられて、なお「もっと踊って!」とのたまう客がいますか?いるんだなあ、ここに・・  殺してください・・・