yuorhiyaのブログ

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大晦日です

・大晦日だ。

 

・大晦日だからといって特に特別な気分にはならない、というポーズが本当にポーズであることは、今日この日にこの文章を書いていることからあまりに明かで、こんな明示的な「ポーズ」ですらないかっこつけの言葉がなぜ出てきたか理由を問うと、そしてそれを記述する意味をあえて考察すると、「自分の思考の惰性性」を開示すること、これに尽きると思います。日々、どれだけの思いや、それに基づく態度が、インターネット受けしそうな冷笑的で浅薄な流れのままに、自分から考えるということをせずに私に「私の心」として映ってきたか、考えるとなかなか悲しく、いやこれも惰性であると判じるべきだろうか、私の心は一体どこに・・と煩悶することをやめられないことが、2023年年の瀬に、私に思われる一つの事柄であります。

 

・寒いので誤タイピングが多い。今ヒーターをつけたけど、温まるまでに書き終わらないことがあるかしら。反語ではなく、純粋な疑問として。

 

・年末なので一年の振り返りをするのが筋だろうとは思うんですが、私の記録嫌いのポーズが私自身のものとしてついに定着したのか、それとも単に思い出すこと自体がダルいのか、そうした気分は全くありません。じゃあどうしろっていうんだ。年末だから何か締めの感じを出したいが、そう思う気持ちは残っているが、過去の私が人工的に作った記録嫌いの私がそれをさせてくれない。あーあ。そのうち「年末を特別なものとみなすのはダサい」と考える誰かが私になって、こうした機会はついに消えてしまうのかもしれません。いつか消えるこの機会を、丁寧に扱いたい。

 

・じゃあどうする。記録嫌いは、自分の言葉嫌いと、すべてにおける変容への愛から来ていると思います。当然言葉には限界があり、自分の心を記述するなんてことは自己満足でしかないし、その自己満足を楽しむことももちろんツイッターなどではするけれども、自己満足のためにするに記述という労を割くのが惜しい気持ちが大半で、だから自己満足のためだけに、そして自分の感覚を誰かに認められてそれが正しいのだと信じたい承認欲求が強まらない限りは、あえて記録を残すということは、このんではしません。今のわたくしは。

 

・「今のわたくしは」という言葉に見られる通り、私は過去の私と現在の私を別物として扱おうと常に試みておりそれは先ほど述べた変容への愛から来ます。変容への愛がどこから来たかというと、おそらく、全てのものは変わっていくからそれを肯定し楽しむことで、この世界における、精神的な勝ち組になりたいというさもしい人生観から来ている。あとドラゴンラージャ。あれは確か共時的にも通時的にも変化するものを人間として定義していたように思われます。誤読だったり記憶違いだったら恥ずかしいけど、なぜドラゴンラージャを出したかというと、イヨンドの「涙を飲む鳥」が日本語訳されるらしいというニュースを聞いて、単純にワクワクしている・・というか、その話題を見て単に気分がドラゴンラージャに不可逆的に人生を変えられたものとして自身を見なしたいという欲求ーーそれはとりも直さずTwitterのフォロイーを見て、仲間になりたいという細やかな対人意識があったからーーに求められる。

 

・で、自分の記録がなぜ変容への愛と対立するかといえば、言葉は残り、常に未来の自分に(自己愛から)参照され、その当時の言葉をもとに自らを定義し直し、つまり自分の変容をすこぶる阻害する可能性があるからです。当時見たように現在も対象を見、同じ感想を抱き、それを言葉にしなおすことで新鮮な他者からの認識を得、満足することーーこんなにも唾棄すべき、何の進歩もない営みに、高潔な私の心は耐えられないのでした。なので自分の記録はしないようにしているし、そもそものそれの不可能性も加わって、いよいよ記録なんてないさ、記録なんてウソさ、寝ぼけた自我の浅ましさだったのさ、と言いたくなるのです。

 

・過去の自分の記録を未来の自分が他者として読み直す可能性、過去の自分を振り返りその過ちを見出し現在の自分を正す材料とする可能性を破棄し、無批判であることに安住する自分の思い込みを正す可能性を失っている。そうかも。そうだね・・ではやっぱり、単なるめんどくささだったのかしら。そうかも・・

 

・こうして自分のスタンスに対して適当な返事「そうかも・・」をすることで、批判を受け止めたポーズをとって真剣に自分の変容に取り組もうとしない、この点での怠惰、この点での現在の自己愛、保身に走る自分についてどう思いますか?2023年、この「そうかも・・」という、批判を受け止めるていの緩い自己愛を、一新するきっかけにしてもいいんじゃないですか?大晦日だし。

 

・自分の足元を見つめ直し、柔軟に自分を望ましい方向に更新するあり方って素敵で、そうありたいと願っているが、それをしないのは、やはり単なる怠惰でしかないと思う。自らの怠惰を「記録の不可能性」「変容への愛」と小難しい言葉で彩り、確固たるスタンスであるように自分に演出し、その演出された自分に満足するあり方が、先ほど嫌いだと述べた、進歩のない恥ずべきあり方でなくて何だというのか。

 

・今結構驚いていて、というのも、記録による変容の阻害を謡うその文章が、それが紡がれることによって、まさに書き手の自己の変革を迫っているからです。えー!楽しい!構成上の美しさから来る快感も乗じて、とても楽しい気分です。心から信頼していた親友が、その信頼する理由によって、自分を裏切った、そういった気持ちよさがあります。何を私が信用していたかと自らに問えば、驚くべきことに、活字です。活字に何かが表現されうるという不思議な事態。そして、活字と、それを描く主体の複雑な、単純な一致ではない関係。この違いがあるからこそ、私は私に相談することができるし、そうして自らを自ら認められるようであれかしという思いを書くこと、何なら言葉で思考することで表現することができた。この違いが違いであればこそ、書くことによって書く内容が書く内容を裏切るという耽美なドラマをこうして見ることができる。自らを支えていた自問の形式が、保身と自己満足に止まらないものであったことを、私は嬉しく思うし、この結果はきっと、活字にして自分でそれを見るのでなければ、考える素地として機能しなかった。自分の頭の中で何度「記録嫌い」とそれを構成する足場を見つめても、そこに立って土を耕し、新しい「自己変容」の種を撒くことはなかった。活字の保存性を改めて実感できたことに、私が活字の保存性と保身を重ねてきただけに、驚きを禁じ得ません。

 

・いいんじゃないでしょうか。来年に活かしていきたい新しい気づきがあって。大晦日らしい内容になったんじゃないか。来年は、なるべく、気が向いた時に、自分の信念を、ほじくり返し発展的なものに作り替えていくために、言葉にしてみたいと思います。新年だけに。

 

・えっ!?進歩的な姿勢への嫌悪は書かないんですか!?←大丈夫、その嫌悪は、消えてゆくものとしての諦念に対する逆張りとしてあるだけだから。そのうち、ネ・・